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−サブリミナル ルービックキューブ−
〜4〜
そして気付くと俺は電車の席に座っていて、手元には音楽雑誌があった。
デジャヴ。既視感。
今まで俺は何をしていた?
夢を見ていた気がする。何の夢だったろう。
My mother has killed me.キーキー。メビウス。
断片的に浮かんでは消える思考。何の夢だったろう。
俺はもう一度、過ぎ去ってしまった過去を引き戻そうと目を閉じた。
けれどだめだ。
それらは尻尾も残さず何処かへ消えてしまっていた。
俺の思考を返してくれ。
しかし、「引き戻す」作業をしようとすると頭が鈍く痛んだ。
頭痛。良くない。頭痛はだめだ。
俺はその作業を諦めて目を開けた。
オーケィ、よかった。まだちゃんと電車の中にいる。
しかし。
「アキ。」
アキが俺の右隣にいた。
彼女はこちらを見るとニコリと微笑んだ。
アキ。
彼女の長い髪が、どこからか吹いてきた花の香りの風に揺れた。
さて。
何故アキが俺の横にいるのだろう。
俺はアキを連れて来たのだっけ。
いや、そうではないはずである。目を閉じるまではたしかに隣にいなかったはずである。
アキ。
とにかく俺は何か言葉を探そうとした。
けれど考えれば考えるほど言葉は俺の意識から遠ざかり、
仕方がないのでただ通り過ぎる景色を眺めてみた。
30秒くらいそのまま二人は黙って外を見ていた。
見慣れた景色。いつも見る景色。
けれど何かが足りない気がした。
それはただ「景色」であるだけで、その中の「生活」が感じられなかった。
いつも俺が嫌う「生活」の匂いだ。
やがて川が見え、電車が橋を渡り始めたあたりで突然。
膝に置いた俺の右手にアキが左手を重ねた。
アキが言った。
「好きよ」
「知ってる」
知ってる。大丈夫。俺はアキの小さな左手を握った。大丈夫。
「私のことは好き?」アキが言った。
「好きだよ」
言葉にしなくても大丈夫なんだ本当は。けれどたまに言葉にしないと不安になる。
好きだよ、アキ。
アキは「うん」といって笑った。その頭を俺の肩に預けた。
心地いい重さを肩に感じる。
少し顔を横に向けてその髪に鼻先を触れさせた。
花の香りが脳をくすぐり、俺は思った。
この女は、誰なのだろう?
アキだ。アキであることは知っている。
けれど、誰だ?
俺はアキが好きだ。誰より。それはわかる。「好きである」という感情を認識することはできる。
しかしそれはまるで上塗りされた油絵のように、
俺の心の上に不自然に乗っていた。
そしてそれはあくまで「認識」であって「記憶」ではなく。
アキという女の記憶がなかった。
ただ彼女はアキで、ただ俺は彼女が好きである。
上書きされた感情。小さな隙間に後からねじ込まれた、アキに対する情報。認識。
さてこの女は、誰なのだろう?
また頭が痛み出す。ぐわんぐわんぐわん。
俺は思考を整理すべく、また目を閉じた。
しかし、本当は整理すべき思考なんて元から無いのだ。
目を開けると、外の景色が変わっていた。
アキの手は変わらず俺の右手の中にある。
見覚えのない場所。知らない景色。どこにでもあるようで、けれどどこにもなさそうな街の景色。
街の空気が全体的に茶色がかっている。
そして電車は駅のホームへ滑り込んだ。
駅名――空白。
何処なのだろうかここは。
俺は立ち上がった。なんとなく電車を降りなければならない気がしたのだ。
ドアが開く。すーーっ。
アキを車内に置いて、ドアを出る。
アキが背中で「さよなら」と言った。
少し悲しくなった。
愛している。アキ。好きだと認識している。
誰よりも。
ドアが背中で閉まる直前、アキが「もうすこし」と言った気がした。
もうすこし。
何までもう少しなのだろう。
電車はホームをまた音もなく滑り出す。
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