−8月のセレナーデ−


正和が、芋虫になってしまった。
綺麗な青い芋虫になってしまった。


まさかそんなカフカじゃあるまいし。
だけど実際に、私が朝目覚めたとき正和は隣にいなくって、
家じゅう探したけどどこにもいなくって、
ただベッドの上に芋虫がいたのだった。
正和に似て、綺麗で、引き締まった身体をした青い芋虫。
こっちを見上げて、悲しそうな目をした。


さて。
そんなわけで正和を私は飼うことにしたのだけれど、
虫なんて飼ったことがないものだから何に入れたらいいのかもわからない。
だけど正和ならきっと逃げるはずはないと思ったので、
私は自分の身体で飼うことにしてみた。
正和が好きな私の身体で、正和は自由に這い回ればいい。

最初の3日間、私はめそめそと泣いた。
正和が芋虫になってしまった。
もう正和の柔らかな唇が私の唇にそっと触れることはない。
もう正和の無骨な手が私の手を握ることはない。
もう正和の綺麗な身体が私の身体を包むことはない。
もう正和の日焼けした肌が私の肌と触れることはない。
だからめそめそと泣いた。

だけど4日目に気が付いた。
もう正和の唇が他の女の唇が他の女の唇にそっと触れることはない。
もう正和の無骨な手が他の女の手を握ることはない。
もう正和の綺麗な身体が他の女の身体を包むことはない。
もう正和の日焼けした肌が他の女の肌と触れることはない。
それはとても素敵なことだった。
だから私は泣くのをやめた。

もちろん正和が、あくまで私の知っている範囲だけではだけど、
今までにそんなことをしたわけではないけれど、それでも。
だってこの世には女が多すぎるのだ。
それも私なんかよりずっと素敵な女が多すぎるのだから。
ずっと不安だった。ずっとずっとずーっと。
正和を信じていないわけではないけれど。
だって正和の周りには、私の知らない女が沢山いると思う。
友達であるとか、たとえば、昔愛した女であるとか。
だからずっと不安だった。きっとみんな、私よりずっと素敵に決まっているのだ。
だから、正和が綺麗な青い芋虫になってしまったことは、そう、素敵なことだった。

それに正和は夜になると、とても上手に私の身体を愛撫した。
小さな身体でゆっくりと、ゆっくりと、それでもとても上手に私を夢見心地にさせた。
その引き締まった青い身体が私の唇に重なる時、私はそっと目を閉じた。
愛してる。本当に。
私は芋虫の正和でも、心の底から愛することができた。


食べるものは普通の芋虫と同じでいいみたいだった。というか、そうじゃないと食べられないみたいだった。
はじめの日、私は何を食べさせたらいいのかわからなくて正和が好きな肉じゃがを作ってみたのだけれど、
正和はしばらくじゃが芋の上を這いまわったあとで悲しそうにこちらを見た。
キャベツを千切ってあげてみると、正和はちょっとずつ、ツクツクとキャベツを食べた。
せっかく作った肉じゃがは勿体無かったけれど、
正和が食べられないのに私が食べるのも申し訳ないから捨てようと思った。
肉じゃがの入ったお鍋を持ってゴミ箱に近づくと、正和が怒ったようにこちらを見た。
芋虫になっても、優しい正和は変わらないのだった。私はその日、肉じゃがを食べた。

私たちは、なかなか上手くやっていた。
芋虫になっても正和はやっぱり私の恋人だったし、私は正和の恋人だった。
身体の形なんて関係なく、私たちはやっぱり愛し合っていた。
むしろ、正和の形が人間であった時よりもさらに、私は正和を愛したかもしれない。

しかし、しばらくするとだんだん正和の様子がおかしくなってきた。
私の首筋のあたりでずっとじっとしていて、動きたくないみたいだった。
病気なんだろうか。私は不安で仕方がなかった。
夜になっても正和はもう愛撫をしてくれなかった。じっと目を閉じていた。

その3日後くらいに、私は正和に元気がない理由を理解した。
つまり、正和はさなぎになろうとしているのだ。


正和がさなぎになってしまっても、私はまためそめそと泣いたりしなかった。
私の首筋には綺麗なさなぎが貼り付いたまま、ぴくりともしなかった。
それでも、正和は蝶になろうとしているのだ。とても綺麗な蝶に。
だから、私は正和がゆっくりと、綺麗な蝶になれるように、泣いたりしないことにした。
正和の心配事を増やしてしまってはいけないから。絶対に寂しいなんて言わない。
それはとてもとても辛いことだったけれど、私は自分で思っているよりは強かったみたいだった。
それに、私は知っていた。
正和はずっと私のそばにいる。
私の首筋で、正和は生きている。
だから、私は絶対に寂しいなんて言わなかった。


そしてとうとうある日。
私の首筋に、ちょっと引きつったような感覚があった。
そっと正和のさなぎに手をやるとそれは少しだけではあるけれど、もぐもぐと動いていた。
私は急いで、お気に入りのアンティークの鏡台の前に座り、自分の首筋を観察することにした。
正和は時間をかけて、ゆっくりと、だけど確実に、さなぎを破ろうとしていた。
綺麗なさなぎが、少しずつ割れて、中から白い羽根が、姿を現しはじめた。
ゆっくり、ゆっくり。それは愛撫のように時間をかけて、そっと、だけどとても上手に。
羽根はやがて全てを外に晒し、だんだんと大きく広がった。
そして、綺麗で、引き締まった身体もまた、外へ。ゆっくり、ゆっくり。

正和が飛びたった。
最初は頼りなく、だけどだんだんしっかりと、私の周りを飛んだ。
それは人間だった頃の正和に似て、とても堂々としていた。

だけど私は気がついてしまった。
もう正和は大丈夫なのだ。
正和は、いつだって私のそばを離れて行くことができる。
たとえばそう、昔愛した女のところへ行くことだってできるのだ。
それはとても怖いことだった。
怖くて怖くて仕方がなかった。
私は知りもしない女の影に怯えているのだった。
正和が昔愛した女であるとか。
あぁ。
嫌だ。
絶対に。
もうどこへも行かないで欲しいのに、正和は今、私より自由だった。
どこへでも飛んで行けた。
嫌だ。

私は正和を捕まえた。
潰さないように、そっと。
そして私の手の中でじっとしない正和をちょっと眺めて、
右手で、その白い羽根を。
左手で、その引き締まった身体を。
それぞれつまんで、左右に分けて。
…と思ったのだけれども、私はふと気付いた。
正和だけが悲しい思いをするのは、絶対にだめなのだ。
悲しいことは半分こ、嬉しいことは2倍。そう笑って約束したのはまだ正和が人間だったころだけれども。

だから私は、正和の羽根をもぐことをやめて、正和を握ったままで鏡台の前に座り、鏡台の引き出しからナイフを取り出した。
一度も使ったことがないのに、なぜか持っていたナイフ。
そうか、このためだったのか、と思った。
私は左手に正和を、右手にナイフを。
そして左の首筋に、ナイフをそっとあてた。ひやりとした。
そのまま、思い切って引く。
それは、初めて正和に愛を伝えた時ほどの覚悟は必要としなかった。
そして、あの時とは違って、今、この先にあるものは、確実だった。

私の目の前の鏡に、私が今まで見た中で一番綺麗な赤が飛んだ。
それはもしかしたら、正和と同じくらい綺麗だった。
私は初めて、正和に並べたと思った。
そして、他の女なんかよりずっと綺麗な赤だと思った。
私は綺麗に違いなかった。
もう大丈夫。正和はどこへも行かない。

私の手はだんだん冷えて、固く握り締めるようになったようで、
最初はじっとしていなかった正和はだんだん静かになってくれて。
もうどこへも行かない。


BACK