−真冬の昼のメルヘン−


午後1時。大学の隅にある古ぼけた学食――というよりは、食堂と呼んだほうが似合っている気がするが――は、昼食をとる学生で混みあっていた。

さっきから有線で妙に高い男性ボーカルの歌がかかっている。流行っているのだろうか。

安っぽい歌詞だ、と思った。俺が書いたほうがまだマシだ。

だが、やはりそれはそれで大変なのだろうな、とすぐに思った。

世の中には俺の知らないことがまだ山ほどある。

そして俺はトレイに乗った、妙に水っぽいカレーを口に運んだ。

別段美味しいわけでもない。ただ栄養を摂取するためだけに作られた事務的なカレーだ。


そのだらだらのカレーが自分の腹の中にびちゃびちゃと音をたてて溜まる様子が、急に脳裏に浮かんだ。

その事務的なカレーを、俺の胃壁は吸収して、血に混ぜて、肉に変えて、きちんとカレーの事務は全うされる。

このだらだらで事務的なカレーが俺になるのか。そう思ったら何故か無性に喉が乾いた。

俺は机の真ん中に置いてあったポットに手を伸ばし、自分のコップに水を注ぐとポットを戻した。

水を一口啜り、この水とカレーが腹の中で混ざるところをまた想像した。

水で薄まったカレーと、胃液に溶かされた人参と、肉が、境目を無くしてぐちゃぐちゃに混ざり合って俺の血になり肉になる。

こんなことしか考えられない俺は、すこし病んでいるのだろうか。

だがおそらく全ての人が、多かれ少なかれ自分は病んでいるという妄想に駆られるものである。

他人と自己の差別化を行いたいがための妄想。

だからきっと、俺は病んでいないのだろうと思った。

病んでいると思うこと自体が普通なのだ、この世界では。



そのとき突然、さっき俺が机の真ん中に置いたポットが口――何故か俺は口だと思ったが、それは実際のところ蓋、だ――を開いた。

そして、マンガのように甲高い声で喋りだす。口をぱくぱくさせながら。

『秋は切ない気持ちでいっぱいになりますね…』

『ジャッキーとASKAさんはそんなに似ていると思う?』

「もわわわわ」俺は驚いてすこし仰け反った。

全く訳がわからない。ポットが喋っているのだ。比喩ではなく、事実として喋っている。

何故ポットが。いつの間に俺はディズニーのアニメの中にトリップしていたのだろうか。

『まだまだ夏の暑い日が続きますがどうぞ、お身体に気をつけて!』

今は冬だ。外は雪に埋もれている。それでもポットは喋る。ひたすら喋る。

『しばらくパソコン壊れてたんだけど、ついに買い換えてネット復活できました!』

誰の言葉なのだろう。それとも、今はポットもパソコンを使う時代なのか。

もはや俺の脳は驚くことすら拒否して、ぼんやりと意味の無い思考ばかりが回転した。

その間にもポットは喋る。喋り続ける。

『映画はやっぱカーペンターだな』

『私はあなたを愛していたのに』

ぱこん。なんだかうるさいので、手でポットの口――要するに蓋だ――を押さえてみた。

ポットは黙ったが、内側からそれを開こうとする力が働いているのがわかる。

手を話してみる。またポットは甲高い声で喋りだす。

ふと気付く。俺は、こいつの中にあった水を飲んだのか。それは、本当にただの水だったのか。

それから俺は、ふと思って周りを見渡してみた。他の人間には聴こえていないのだろうか。

だが、だれもそのポットに興味を示す者はいなかった。

みんな、今日の分の栄養を摂取するのに必死だ。ただ事務的に。

俺にしかわからないのか、他の人間がわからないのか。

ぱこん。もう一度手で押さえてみる。黙る。離す。喋る。


「放っておけばいいのです」


突然後ろから声が降ってきて、俺は一瞬びくりとした。そして振り返ると、男が立っていた。

顔がよくわからない。見えてはいるのだが、一瞬でも目を離すと忘れてしまいそうなのだ。

年齢はどれくらいなのか、どんな服を着ているのか、そもそも、日本人なのか。わかるのに、わからない。

今まで会ったことがあるかさえもわからない。わからせない。


「放っておけばいいのです」


彼はもう一度同じことを言った。低いようで、高いような声。鼓膜を直接震わすことのない、脳に響くそれ。


「皆、自分に関係のある事意外には興味を示しません。」

「人間は、無関心な動物になってしまった。」

「だから、放っておけばいいのです。」

「ただ事務的に。」

「ただ事務的に放っておけばいいのです。」


「あなたが人間なら。」


俺は、ポットを見た。もうポットは喋っていなかった。

それからもう一度男の方を振り返ったが、男はもういなかった。顔はもう思い出せなくなっていた。


世の中には、俺の知らないことがまだ山ほどある。


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